聖書
1)、私たちは、旧新約聖書の66巻がすべて逐語十全霊感によって記された神のことばであると信じる。 聖書は全く誤りのない、神によって霊感されたことばであるので、信仰と生活において絶対的な権威を持つ規範である。 旧新約聖書の66巻は、神が人間にお与えになった完成された啓示である。聖書を解釈する方法は、文法的にも、歴史的にも、字義どおりの意味にとることである。(ヨハネ 17:17・II テモテ 3:16-17・II ペテロ 1:20-21・黙示 22:18-19)
2)、私たちは、聖書が神の霊感によって与えられた原典と同等に神の聖さで保存されたと信じる。完全に信頼できる聖書の翻訳は、旧約聖書のヘブライ語マソラ原文(英語:Masoretic Text)と新約聖書のギリシャ語公認聖書原文(英語:Received Text)に基づいた翻訳だけである。(詩篇 12:6-7・マタイ 24:35・I ペテロ1:24-25)
神の聖定された時代区分
私たちは、聖書を、その生来的字義的意味において正しく解釈するなら、神が定められた時代的区分、あるいは継続するそれぞれの時代における人間の責任を定義する生活の規則を明示していることを信じる。 時代におけるこれらの責任とは、救いを受ける方法ではなく、むしろ神が御自身のご目的にしたがって人間を導くために定められた管理方法である。 これらの時代区分の中の三つ、すなわち律法の時代、教会の時代、王国(御国)の時代は、聖書に詳しく述べられている課題である。(創世記1:28・II コリント3:9-18・ガラテヤ3:13-25・エペソ1:10・3:2-10・コロサイ1:24-25・黙示20:2-6)
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神
私たちは、三位一体であられる唯一の神を信じる。神は父、御子息、聖霊の三人格として永遠に存在される。父、御子息、聖霊は、永遠に共存され、またその性質、力、栄光において全く同等であられると信じる。(申命記6:4・マタイ28:19・ヨハネ14:10、26・II コリント13:14)
キリストの人格と御業
1)、私たちは、神の永遠の御子息であられる主イエス・キリストが、神を表わし、罪人を贖うために、神の性質を失うことなく、聖霊によって処女より降誕し、人となられたことを信じる。(イザヤ7:14・9:6・ルカ1:35・ヨハネ1:1-2、14・II コリント5:19-21・ガラテヤ4:4-5・ピリピ2:5-8)
2)、私たちは、罪のない主イエス・キリストが十字架の死を通して、罪人である私たちの身代わりの犠牲として、私たちの贖いを備えるために、進んでご自身 のいのちを捨てられ、また、死者の中から文字どおり肉体的によみがえることによって私たちが義と認められることを確実にしてくださったと信じる。(使徒 2:18-36・ローマ3:24-25・
II コリント5:21・エペソ1:7・I ペテロ1:3-5)
3)、私たちは、主イエス・キリストが天に昇られたこと、今は神によって高く上げられたお方として、神の右の座に着かれ、また私たちの偉大な大祭司 として、私たちの仲介者、とりなし者、弁護してくださる方、としての努めをしておられることを信じる。(使徒1:9・ローマ8:34・ヘブル7:25・ 9:24・I ヨハネ2:1-2)
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聖霊の人格と御業
1)、私たちは、聖霊が罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせるお方であると信じる。聖霊はキリスト×に×を信じる者を更新させ、 生まれ変わらせ、キリストのうちに置き、また信者のうちに内住しておられる。キリストを信じる者は、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているの である。(ヨハネ16:8-11・ローマ8:9・II コリント3:6・エペソ1:13-14)
2)、私たちは、聖霊が信者が聖書を理解して、それに従うために助けてくださる神聖な教師であられると信じる。救われた者はみな、聖霊に満たされる特権と責任を有していると信じる。(ヨハネ16:13・エペソ1:17-18・5:18・I ヨハネ2:20、27)
3)、私たちは、神がすべての信者に御霊(聖霊)の賜物を与えてくださると信じる。神は、聖徒たちを整えて奉仕の働きのために、特に伝道者、牧師、教師を立ててくださる。(ローマ12:3-8・I コリント12:4-11、28・エペソ4:7-12)
4)、私たちは、聖霊の賜物の中の、「異言の賜物」と「いやしの賜物」が、一時的な賜物であったと信じる。異言を語る賜物は、決して人が聖霊のバプ テスマを受けた、あるいは聖霊に満たされたことの通常のしるしではなかったと信じる。また、神がある信者の祈りの願いに答え、そのからだの病気をいやすの を決めておられることはあるが、病気と死から完全に救い出されることは、信者のよみがえりの日まで待たなければならない。(I コリント1:22・13:8・14:21-22)
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人間の完全堕落
私たちは、人が神に似るように神のかたちに造られたが、アダムの罪によって全人類が完全に堕落し、罪の性質を受け継ぎ、神から離れてしまったので、全人類 がおのれの力によってはその完全堕落の状態を打破することは絶対に不可能であると信じる。(創世記1:26-27・ローマ3:22-23・5:12・6: 23・エペソ2:1-3・4:17-19)
救い
1)、私たちは、救いが神の恵みによって、主イエス・キリストに対する信仰を通して与えられる神の賜物であると信じる。また、キリストがカルバリの十字架で私たちの罪のために御自身の尊い血を流してくださったことを信じる。(ヨハネ1:12・エペソ2:8-9・I ペテロ1:18-19)
2)、私たちは、救いが完全に仲介者であられるイエス・キリストの十字架上の完了した支払いによるものであることを信じる。そのキリストこそ罪を知 らないお方でありながら、私たちの身代わりとして、十字架上で私たちの罪をその身に負われたのである。(イザヤ53:4-12・II コリント5:21・ヘブル9:13-15・II ペテロ2:24)
3)、私たちは、救いがすべての人のためであり、すべての人に提供されると信じる。(イザヤ55:1・ヨハネ3:16・ローマ6:23・エペソ2:8・I テモテ2:4・II ペテロ3:9)
4)、私たちは、人が自分の高慢、また福音を拒むということ以外には、いかに極悪な罪人でも、神の賜物である救いを受け入れるのを妨げるものは何ひとつもないと信じる。(ヨハネ5:40・マタイ23:37)
5)、私たちは、罪人が救われるために、神の御霊によって新しく生まれなければならないと信じる。(ヨハネ3:3、5・テトス3:5)この新生に よって、聖霊は新しく生まれた信者の心の中で見えない働きを行われ、信者が神に属していることを喜び、また理解できるようにしてくださるのである。(I コリント2:12・II コリント5:17)
6)、私たちは、人がまことに新しく生まれたなら、その人は新しいいのちに伴う聖なる実を結ぶようになると信じる。(マタイ7:15-23・ガラテヤ5:22・エペソ2:10・ヤコブ2:17-26・I ヨハネ5:4-18)
7)、私たちは、神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰は分離できないものであり、生まれ変わらせてくださる神の御霊によって人の心 に入れてくださるものであると信じる。(マルコ1:15・使徒20:21)人が救われるためには、自分の罪、無力、さばきの危機などを深く認め、正直にへ りくだった心を持って神により頼み、自分の罪を言い表して神のあわれみを願うべきである。(ルカ18:13)そして、キリストこそが救いの道であられるこ とを信じて、自分の救い主として喜んで受け入れるべきである。(ローマ10:9-13・ヘブル4:14)
聖化
私たちは、「聖化」とは、人が神のご性質にあずかる者になる方法であると信じる。(I テサロニケ5:23・II ペテロ1:4)聖化は、クリスチャンの立場的聖化と、漸進的聖化として見ることができる。クリスチャンの立場的聖化とは、父なる神が、贖われた罪人をキリ ストの血によって義と認められた者として見てくださることである。(エペソ1:7・ヘブル10:10・10:14) クリスチャンの漸進的聖化とは、人が、贖われた罪人を見ることである。聖化が人の救いによって始まり(ヨハネ3:6・ローマ8:5)、 新しく造られた信者の心の中で成長し、また聖霊、聖書、祈り、自らを省みること、この世に対して自分を捨てることによって成長していくのである。(エペソ 4:11-12・4:30・ピリピ2:12-13・テトス2:12)
永久保持と救いの確信
1)、私たちは、贖われた者がみな、救われた日から永遠に、神の御力によって守られ、キリストにあって永遠に安全であると信じる。(ヨハネ6:37-40・10:27-30・ローマ8:1、38-39・I コリント1:4-8・I ペテロ1:4-5)
2)、私たちは、贖われた人がキリストに正しく仕えなければ、その奉仕に関する報いを失うと信じる。しかし、その報いを失っても、救いを失うことはありえない。(I コリント3:15)
3)、私たちは、キリストの信者が、神のみことば(聖書)に書いてあるとおりに、自分の救いの確信を喜ぶ特権を持っていると信じる。しかし、この自由を、肉(罪の性質)の働く機会としてはならない。(ローマ13:13-14・ガラテヤ5:13・テトス2:11-15)
教会
1)、私たちは、キリストのからだであり、御自身のいいなずけ、花嫁である地方教会が、新しく生まれた信者だけの集まりであると信じる。(I コリント12:12-14・II コリント11:2・エペソ1:22-23・5:25-27・コロサイ1:18)
2)、私たちは、地方教会の設立と連続性という教えが新約聖書の中にはっきりと教えられていると信じる。(使徒14:27・20:17、28-32・I テモテ3:1-13・テトス1:5-11)
3)、私たちは、地方教会が自主独立であり、そのかしらはキリストであり、教会上には他の権威、支配などが全くないことを信じる。(使徒13:1-4・15:19-31・20:28・ローマ16:1、4・I コリント3:9、16・5:4-7、13・I ペテロ5:1-4)
4)、私たちは、この時代に教会が守るべき礼典として、「バプテスマ(全身浸礼)」と「主の晩餐」という聖書の二つの命令を認める。(マタイ28:19-20・使徒2:41-42・I コリント11:23-26)
分離
私たちは、救われたすべての者が、自分の救い主である主イエス・キリストの名誉を傷つけないように、クリスチャンの振る舞いを守らなければならないと信じ る。また、クリスチャンが宗教的背教、この世の罪の楽しみ、罪の行ないと交際などから離れることは、神の命令であると信じる。(ローマ12:1-2・ 14:13・II コリント6:14-17・II テモテ3:1-5・I ヨハネ2:15-17・II ヨハネ9-11)
キリストの再来
私たちは、大艱難期の七年前に、キリストにあって救われたすべての人をこの世から天国まで引き上げてくださるキリストの差し迫った再来、「祝福された望 み」を信じる。大艱難の七年後に、キリスト御自身は「メシア」として、イスラエルの国民に約束された千年間の御国を実行するために、目に見えるお方とし て、ご自分の聖徒たちを引き連れてこの地上に降臨されることを信じる。(詩篇89:3-4・ダニエル2:31-45・ゼカリヤ14:4-11・I テサロニケ1:10・4:13-18・テトス2:13・黙示3:10・19:11-16・20:1-6)
人間の永遠の状態
1)、私たちは、いつかすべての人が身体をもってよみがえり、救われた者は永遠のいのちを受け(第一の復活と呼ばれる)、救われていない者は永遠のさばき と苦しみを受ける(第二の復活と呼ばれる)と信じる。(マタイ25:46・ヨハネ5:28-29・11:25-26・黙示20:5-6・20:12- 15)
2)、私たちは、贖われた者が死ぬときに、そのたましいは肉体を離れ主の御もとに行き、そこで、霊、たましい、肉体が再び結合する第一の復活を待ちながら意識を持って喜んでいると信じる。(ルカ23:43・II コリント5:8・ピリピ1:23・3:21・I テサロニケ4:16-17・黙示20:4-6)
3)、 私たちは、キリストを信じない者が死ぬとき、そのたましいは肉体を離れ第二の復活の日まで意識を持って苦しみ、また第二の復活のとき、その霊、たましい、 肉体が再び結合し、大きな白い御座でさばかれ、それから永遠の火の池に投げ込まれ、永遠に意識を持って苦しむと信じる。(マタイ25:41-46・マルコ 9:43-48・ルカ16:19-26・II テサロニケ1:7-9・ユダ6-7・黙示20:11-15)
サタン
私たちは、サタンが造られた者であり、天の守護者ケルブ(天使)として神に造られたが、神に対する反逆のゆえに、天から追い出された者であると信じる。、 また、サタンが罪の創造者、人間の堕落の原因、聖徒たちの誘惑者であり告発者、この邪悪な世の支配者、偽宗教の創始者、神と人との公然の大敵であり、また 永遠に火の池の中で神からの罰を受けるものと信じる。(ヨブ1:6-7・イザヤ14:12-17・エゼキエル28:14・マタイ4:2-11・25: 41・II コリント11:13-15・エペソ2:2・I ペテロ5:8・黙示20:10)
創造
1)、私たちは、万物の創造に関する創世記に書かれている教えの字義的解釈を信じる。明確に言うなら、万物、生物も無生物も神の直接の行為によって創造さ れた。創世記に記されている創造の「日」は、ある長い時代を指すものではなく、24時間の文字どおりの一日であったと信じる。(創世記1-2 章)
2)、私たちは、人間が神に似るように、神のかたちに、完全にしかも瞬間的に造られたと信じる。人間が他のものから出たのではなく、その種類にしたがって生殖する。同じように他の生物もまた、その種類にしたがって生殖するものであると信じる。(創世記 1-2 章)
3)、私たちは、「進化論」、「ギャップ説」、「日ー長期説」、「神進化論」が、すべて聖書にある万物の起源の教えとは異なっているので、それらを拒絶するものである。(創世記1-2 章・出エジプト記20:11)
政治
私たちは、神が、1)、家族、2)、教会、3)、国家という三つの基本的制度からなるすべての権威を定めて造られたと信じる。すべての者ははこれらの権威 に従うべきであるが、権威の下にいる者も、権威を持っている者も、みな神に従う責任があり、みな神のみことばに治められて×おりいる。神はこれらの一つ一つの 制度に聖書によって責任を与え、一つの制度が他の制度を侵害する権威を全く有していないということを定められた。家族と教会と国家とは、神の権威の下にあ る制度として、それぞれの責任の領域の中で、同等の自治を有しているのである。 (ローマ13:1-7・エペソ5:22-24・ヘブル13:17・I ペテロ2:13-14)
性道徳
私たちは、神は、男と女は結婚の関係以外にいかなる性的関係にも入ってはならないと命じられたと信じる。また、いかなるかたちの「同性愛」、「性転換」、 「両性愛」、「獣姦」、「近親相姦」、夫婦ではない男女間の私通、「姦淫」、ポルノなどがすべて、神の賜物である結婚に伴う性関係を倒錯する要因であると 信じる。(創世記2:24・19:5・19:13・26:8-9・レビ記18:1-30・ローマ1:26-29・I コリント5:1・6:9・I テサロニケ4:1-8・ヘブル13:4)
結婚、離婚、再婚
1)、私たちは、結婚が一人の男と一人の女とを結ぶものであると信じる。「同性結婚」などの結婚の倒錯を断固として拒絶し、またキリストの信者は信者と結婚すべきであると信じます。(創世記2:18-25・ローマ1:26-28・II コリント6:14)
2)、私たちは、神が離婚を憎み、夫婦の結びつきが死にいたるまで続くことを望んでおられると信じる。不品行や姦淫の理由以外で、離婚後再婚するこ とは姦淫とみなされる。離婚者や再婚者のクリスチャンも教会員として神に仕える勤めを持って、神にすばらしく用いられることはあるが、教会の牧師あるいは 執事としての勤めを持つことはできない。(マラキ2:14-17・マタイ19:3-12・ローマ7:1-3・I テモテ3:2・3:12・テトス1:6)
堕胎
私たちは、人間の生命が受胎のときに始まり、胎児は生きている人間であると信じる。「堕胎」は人間である胎児の生命を殺すことであり、全く正しいことでは なく弁解の余地はない。堕胎は殺人である。私たちは、強姦、近親相姦、先天的な欠陥、性別選択、産児制限、人口制限、母体精神健康などの理由で、堕胎をし てもよいという教えを断固拒絶するものである。弁解できる堕胎は、両親が神に与えられた新しい子を望み、生みたくても、妊娠の間に、母体もしくは子の生命 を危険にさらす摂理的健康の併発症があるときのみである。(ルツ4:13・ヨブ3:16・詩篇51:5・139:14-16・イザヤ44:24・49: 1・エレミヤ1:5・20:15-18・ルカ1:44)
宣教
私たちは、すべての国、民族、種族、国語の中から大きな群集が主イエス・キリストを信じるために、神はすべての造られた者にキリストの福音を宣べ伝えると いう大いなる命令を教会にお与えになったと信じる。私たちはキリストの使節として、できる限りをつくして自分の国のすべての人を初め、すべての国のすべて の人のところまで行くために、利用できるすべての方法を使うべきである。また、これらの人々が私たちのところに来るのを待つべきではない。(マタイ28: 19-20・マルコ16:15・ルカ24:46-48・ヨハネ20:21・使徒1:8・II コリント5:20)
信者間の訴訟
私たちは、教会員として、個人的な争いを解決するために、他の教会員あるいは教会に訴訟を起こすことは厳禁であり、また教会がその教会員間の個人的争いを 解決するために、すべての必要資力を持っていると信じる。しかし、クリスチャンが他のクリスチャンの保険会社から損害に対する保証金を得るために、悪意や 中傷さえないなら、損害賠償を要求しても差し支えないと信じる。(I コリント6:1-8・エペソ4:31-32)
献金
私たちは、すべてのクリスチャンが神の富の部分を預かっている管理人として、財政的に自分の地方教会を支える義務があると信じる。神はクリスチャンの献金 の基礎としてを定めておられ、その上、すべてのクリスチャンが地方教会を通して、教会の支え、貧困者の援助、福音の普及などのために、喜んで犠牲 的に他の献金をささげる責任もあると信じる。クリスチャンが教会に献金や他の献金をささげるとき、その献金の使い道を規制する権利を全て放棄する と信じる。(創世記14:20・箴言3:9-10・使徒4:34-37・I コリント16:2・II コリント9:6-7・ガラテヤ6:6・エペソ4:8・I テモテ5:17-18・I ヨハネ3:17)
この信仰告白は、私たちの信仰を完全に検討するものではない。私たちの信仰の全体の唯一の権威は聖書に他ならないからである。しかし、私たちは上記の信仰告白が、聖書の教えを正確に表現しているので、教会員を規制するものであると信じる。
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